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聖マチルダ皇后    St. Mathildis Vidua                  記念日 3月 14日


 聖マチルダ皇后は9世紀の末にドイツ、ウエストファーレン州のテオドリコ侯爵家に、もとデンマークの王女ラインヒルヂスを母として生まれた、当時は子供を修道院に託して教育を授けるのが上流社会の習慣であったから、彼女もそれに従って叔母が院長を勤めているヘルフォルド女子修道院に預けられ、一般必要な知識と共に宗教もよく教え込まれ、敬虔に生い立ったのである。その内に彼女は若くしてサクソニア候ハインリッヒと結婚し、夫婦仲も睦まじく三男二女を挙げた。その結婚後ちょうど三年目の912年の事である。ドイツ皇帝コンラド一世が崩御になり、ハインリッヒがその後継者に推戴され、したがってマチルダも国母と仰がれる身となったが、謙遜な彼女は少しも高ぶる色なく、かえって貧者に恵み病者を見舞い人民を憐れむ事を忘れなかった。のみならず夫が生来短気で立腹しやすい性質であるのを、柔和な態度でなだめ、また囚人を釈放し罪人を寛大に処分するようとりなした事も度々あった。されば国民はこぞってその徳を讃仰し、彼女を慈母の如くに敬愛したのである。なお、彼女は修道院が一国文化に寄与する所甚大なるを思い、夫と共に数カ所に之を設け、その一つなるクエドリンブルグ修道院を自分達の墳墓の所と定めさえした。

 936年ハインリッヒ皇帝は重い病気に罹り、マチルダの手厚い看護も効なく崩御になった。その時最早朝ではなかったが、皇后は一刻も早く亡き夫の為神の子羊の犠牲を献げたいものと、まだ食事を摂らぬ司祭があったのを幸いに、すぐさまミサ聖祭を執り行わせ、自分もそれにあずかって心から死者の冥福を祈ったのである。
 御ミサの後マチルダはその司祭に心ばかりの礼として自分の黄金の腕輪を贈り、皇帝の棺の前へ行って更に別離の涙にくれたが、やがて忘れ形見のオットー、ハインリッヒ、二王子を招き「見られる通り黄金の冠を戴く皇帝といえど、時来たれば一般人民と均しく死して天主の審判の法廷に出でねばなりませぬ。それにつけてもそなた達は身分あるだけよくよく我が身を慎み、善を行い悪を避け、あっぱれ明君となって天主の聖旨に添い、死後の永福を受けるように努めて下さい」と懇々と教え諭した。
 しかし新たに帝位に即いたオットーはバワリア候となった弟ハインリッヒと、母のいましめも忘れたように長い間争って、彼女に深い心配をかけた。そしてやっと仲直りをしたかと思うと、今度は「マチルダ皇太后は取るに足らぬ者を救う為に財宝を浪費しておられる」というわるものの讒言を信じ、弟もろとも母の財産を取り上げてしまった。
 マチルダはこの我が子の不義にいたく心を苦しめたが、自分が宮中にいてはかえって風波の原因と、何事も言わずにそこを去り、エンゲルン修道院に身を寄せ明け暮れ天主に仕えて不幸な子等の為にその御ゆるしと改心の恵を願っていたのである。
 所がマチルダが宮殿を出てからというものは、国内に様々の災厄不幸が続くばかりであったので、聖職者達や諸候はこれを天罰と考え、皇后の口を経て皇帝に皇太后を呼び戻すように懇願したので、オットーも深く前非を悔い、自ら母を迎えに赴き衷心から謝罪の意を表したのであった。
 マチルダ皇后はかくて再び宮中の人となったが、豪奢な生活などは少しも望む心なく、唯思う存分憐れな人々を救い得る境遇になり得た事を喜んだに過ぎなかった。その慈善の数々は彼女の死後6年を経て編纂された伝記に詳しいが、その一部を挙げて見れば「彼女は日に二回貧者に食を与え、己の摂る食物より美味なものを憐れな人々に贈った」とある。また土曜日は夫の命日でもあり主日の前日でもあるので、特に多く施し、且つ貧民の為風呂を立てさせ、自ら何くれとなく手伝いをした事も稀ではなかった。

 マチルダの祈りに熱心なことは実に感に堪えぬものがある。彼女はしばしば夜中でも侍女と共に起き、聖堂を訪れては祈った。そして大抵の日は怠らずダビデの詩百五十篇を唱えたとの事である。
 955年、あたかも彼女がクエドリンブルグの修道院に滞在していた時の事である。バワリア候たりし息子ハインリッヒの訃報がもたらされた。するとマチルダは早速修道女達に彼の為天主の御憐れみを祈り求めさせ、なお亡き夫と子供の冥福を願う目的から、ノルドハウゼンに女子修道院を建てた。
 後帰天の時の近づいた事を感じたマチルダは、亡夫の傍に葬られる事を望んで、その墳墓のあるクエドリンブルグ修道院に赴き、そこで968年3月14日永眠した。そしてその時刻はちょうど彼女が常に貧者に施し物を与えた時刻であったという。


教訓

 本文にもある通り、聖マチルダはわが夫、我が子の死去に逢うと、何よりもまず或いは司祭に御ミサを献げてもらい或いは修女等に祈ってもらう事を求めた。之は彼女が如何に活き活きした信仰を持っていたかという証拠になる。何となれば真に公教の教える死後の世界を信ずる者には立派な葬式を出し、見事な石碑を建立するなどの外面的な事よりも、御ミサや祈りこそ死者を幸福にする無上の道であるからである。